2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 第五話





                    第三話 美夏の不可解


                                       1


 簡単な、麻薬(覚醒剤含む)に関する現在の日本の刑法。

 麻薬所持で、禁固二十年。

 麻薬の使用が発覚した場合、無期懲役。

 麻薬の使用を第三者に、勧誘、強要及び売買した場合、即刻死刑となる。

 いずれも、その場で決定する。弁明の機会など与えない。

 簡単で明白であり、そして極めて厳しい。

 故、麻薬に関わる人間にとって、これは命懸けの問題であり、自分の一生を左右するも

のでもあった。

「…………」

 麻薬に関わることがどれだけ危険なことか、分かりきってはいる。

 だが、だからといってやめるわけにはいかない。

 コードネーム・レイバ。リーダー・ジン、率いる《マッドヒット》チームのひとりであ

る。

 二十八歳となったばかりの彼の表情は、常人のそれとは見違える。頬はこけて、肌の色

は青く、目の下には、睡眠の不足による隈の数倍にものぼるほどの大きさの気味の悪い隈。
 通りすがりの人間にジロジロと見られるのにも慣れた。

   というより、そんなことはどうでもよくなった。

 そんな彼と行動を共にする、ふたりの男。

 ひとりは、見た感じ大男。もうひとりは、自分と同じような体格で、性格もあまり変わ

らないと自分では思っている男。

 そんなふたりを引き連れて、その三人の中でも一応は先頭をいくレイバは、こうしてい

つものように路地裏で大通りを通る人間どもを見ていた。
                                                        ・
 後ろにふたりの男を携え、レイバは今日から一カ月以内に、例の仕事をしなければなら

ない。いや、確実に完了せねばならない。

 期限は一カ月。仮にその仕事がこなせなかったとするのなら、それはすなわち自分の死

を意味している。

 それは彼ひとりではない。残りのふたりも同じである。彼らのリーダー・ジンの命令と

して、それは絶対だ。

 仕事をやるのは、それほど辛いものではない。ただ単純な作業である。

 だが、成功させるのは究めて難しい。

「しかしな……」

 路地裏から見える大通り  確かスコール通りとかいう名前だったか  をじっと見つ
めて、レイバは独白した。

 彼らの問題とも言えるひとつに、仕事をこなす上で危険なものがあった。

 最近ではそれがますます深刻なものとなって、TVで報道されているのも、彼らは心に

痛く思っていた。
                                                                    ・・
 まず、一般市民に見られてはならない。絶対ではないが、そこから広がるあの可能性と

いうものは極めて高い。

 もし見られて、そしてそれを警察にでも通報されたら  

「……くっ」

 どうなることやら、そう思うと、レイバを含む三人は、単純に、地獄だった。

「レイバ、今日はあまり人がいないな」

「……そうだな。運が悪い」

「今日はもう駄目だと思うんでやんすがね」

 最初の大男の言葉に相槌して、そしてそのことが現実であることに悔やみ、レイバとも

うひとりの男は嘆息した。

 今日も、長い一日になりそうだ……。



 正面にいる、まるで死人のような表情をした女性に、青年は絶句したまま見入った。

 それは、何も食べていないのが明白なものであるからこそ、だがしかし、それはその女

性の顔だけではなく、動き全般も言えていた。

 ふらふらとした足取りで近づいてくる彼女は、青年には異様な光景でしかなかった。

 青年  京は、自分の住まうアパートの一室へと入る手前、ドアの前で、その女性が立
ち塞がって自分に近づいてくることに恐怖さえ覚えるくらいだった。それほど、彼女が恐

ろしく見えた。

 自分の知っているはずの彼女。仲は悪くはなかった。彼女のことはある程度知っている

つもりでもあった。

 しかし、久しぶりに会った今の彼女は、京の記憶にある彼女のそれとは相当に異なって

いた。

 絶句したままの、そして動けなくなった体を無理に動かして、京は、玄関からふらふら

とこちらに表情こそ死んでいるが不気味な笑みを携えた彼女が近づいてくるのを見て、口

にした。

「……れ、玲なんだろ? ちょ、ちょっと待ってくれっ。ち、近寄らないでくれよ」

 京の言葉を聞いた瞬間、彼女  玲の動きがぴたっと止まった。

 まさか素直に止まってくれるとは思わなかったのか、京は大きく一息ついて、自分を落

ち着かせた。

 それから、しばらく立ち止まったまま顔を俯かせた、そして今は笑みは消えている玲を

見つめて、落ち着いた自分のことをなんとか意識して、問うた。

「……玲、どうしたんだよ。突然うちになんか来て……というか既にいて……。おじいさ

んの家に帰ったんじゃないのか?」

「……きょ……」

 そんな京の言葉に、小さな声で玲はそう言った。……どうやら声からして、あまり大き

な声が出ないようだ。

「え、なに?」

 玲の様子に、姿からして不審なものを感じてはいたものの、京はとりあえず自分は彼女

の友人であることを考えて、そばへとゆっくりと寄った。

「……きょうちゃ……」

 再び呟いた玲の声はか細く、あまりはっきりとは聞こえなかったが、京は自分のことを

呼んでいるような気がして、それから彼女の顔を、今まではやや離れていたのでこの時に

なってよく見てみた。

「……玲」

 理由は分からない。だが、玲の顔  だけではなく、肌の露出している部分、腕や首の
辺りは、気味の悪いほどに痩せこけていた。

 そんなことに気を取られながらも、とりあえず今は何も聞かないことにした。

 玲がなぜこんなことになったのか気にはなるが、何か理由があるのだろう。

「玲、部屋に、入ろう」

 そう思って、京は彼女の肩に軽く腕を触れて、部屋の中へ入るよう促した。

 玄関から部屋へ入ろうとして彼女の肩に手を回した京。玲は、いまだふらふらとしてい

る。

 とにかくなんとか玄関へと入り、それから暗かった部屋まで行くと、まず電気を付けた。
「……そういえば、美夏は?」

 自問しながらも確認したが、二部屋あるうち、その両方とも電気が消えており、加えて

妹の姿はなかった。

(……もうこんな時間なのに。玲と、関係があるのか?)

 そう思いながらもとりあえず、今にも倒れそうな玲が、そばにいる自分の顔を見ている

のに気づいて、京は彼女を、いつも自分が使っているブルーのソファーに座らせた。

 背もたれがゆったりとしているため、今の玲にはちょうどいいのだろう、京の方は向い

たままなものの至福を感じるがごとく安堵した表情になった。

 そんな玲を、立ったまま数秒見つめて、京はソファーに座った彼女の前へ行って、屈む

と手を取った。

 すると、玲は安心したようにくすんだ瞼をゆっくりと閉じていき、動きを止めた。

「……玲」

 意味も用もなく、彼女の名を呼んでいた。

(……玲、どうしたんだろう)

 その細い腕から感じ取れる微かな脈、普段なら考えもしないそんなことを、京は頭の中

に浮かべていた。

 そんな何もしない状態を続けて数分後、玲から一定した静かな呼吸音が聞こえてきた。

  これから玲は、眠りというものを堪能するのだろう。

 京は立ち上がって、隣の部屋の電気を付けると、玲のいる、ソファーのある部屋の電気

を消した。

(……まぁ、とにかく眠らせておいたほうがいいよな)

 なぜ玲はここにいるんだろうか。彼女はおじいさんのところにいったんじゃなかったの

だろうか。

 いや、それよりも気になるのは、部屋のドアだ。玲が部屋の中にいたということを考え

ると、開いていたのだろうか?

 加えて、玲の体は不気味な状態とも言えるほど、見ていてこっちが苦しくなる。

(それに、美夏もいない……)

 疑問が幾つか残る中、京は眠気に襲われていた。



   まずい……。

 少女の頭の中にはその一単語。

   どうしようっ。

 少女の頭の中には、一単語のものに対する対応策。

   もし帰ってたら、心配してるに違いないよっ。

 少女の頭の中には、一単語と、それに対する対応策、そしてその原因ともなる不安。

「急がないとっ」

 という発声とともにたどり着いたのは、ドアの前。

 そこで少女はしばらく「はぁはぁ」と息をならして、恐る恐るドアノブに手を掛けた。

 ガチャッという音がいつもの音なのだが、今日はそれが鳴らないように気配りをする。

 きーっという微かな音もしたようでしてはいない。

 ドアが開いていたという初歩的な疑問を感じる余裕は、今の少女にはなかった。

(静かに、静かに)

 そ~っと開いて、玄関の電気がついていることを確認。

 だが、これだけでは少女の兄  京が帰っているかどうかは確認できない。

 部屋の中の電気が消えていることを、とりあえず確認。

(おにいちゃん、帰ってるのかな……)

 そうは思いながらも、少女には、ある種の不安があった。

 今日、行方不明とまで自分には思えた兄を捜しに、カフェ・ホーソーンへと行ってから、
そこで出会った新しい女性、祐里との会話は何時間と弾み、今、こうして夜中とも言える

時間まで話してしまっていた。

 もし兄が帰っていれば、それはそれで自分のことを心配しているだろうことに少女は申

しわけなく思うが、だがそれ以前に、行方不明だった兄が、いまだに家へ帰っていなかっ

たとするのなら、もっと少女にとっては苦しかった。

(おにいちゃん、帰ってたら心配させちゃってるかもしれないけど、でも帰っててくださ

い!)

 などと心の中で叫びつつ、少女  美夏は恐る恐る部屋の中へと入った。

「!」

   と、まず気づいたのは、暗い部屋の中で、美夏の安堵の対象ともなるべく人物がい
たことだ。

(あぁ、よかった……)

 本当は大声で叫んで飛びつきたいくらいの気持ちではあるが、今は暗くてよく見えない

が顔に何やら付けている、その対象である兄の京は今は眠っているようなので、美夏はな

んとか心の中でそれを自制すると、ほっとしてしばらくその場に立ち尽くした。

 キッチンのある部屋。それは、玄関と隣接している部屋で、そこで京は眠っていたのだ。
  が、

(ん? 布団が掛かってないな)

 よくよく考えてみると、京は壁づたいに座り込んで眠っている。

(疲れてて、それで帰ったら眠っちゃったのかな)

 そう思いながら、美夏はソファーのある、本来ならばこちらで兄と自分は眠るであろう

部屋へと兄の布団を取るために向かって、そこで何やら不可解な、本来ならばあるべきも

のではないものを発見した。

「  え?」

 部屋に入ってから初めて声を出した。

 暗い部屋の中にある、自分のよく使う桃色のソファー、そのソファーのそばにある、兄

の使う青いソファー。

 そこでは、時折兄が眠ることもあるのだが、だが隣の部屋で眠っていた兄のことを思い

出して、美夏は一瞬わけが分からなかった。

 何やら、ソファーにいる……。

「だ、だれ?」

 不気味なものを感じながら一歩後ずさり、それからよくよく目を凝らして、ソファーに

いる人物を眺めてみる。

「   」

 美夏は、押し黙った。

(な、なんで玲さんがここにいるのっ )

 しばらく会ってはいなかったが、だが美夏にとっては尊敬もしていた、仲の良い女性。

 その会っていないしばらくの期間のせいか、彼女は少し変わっているようにも見えたが、
それは明らかに自分の知っている女性  玲だった。

 眠っている玲をしばらく無心のまま眺めて、それから隣で眠る京を愕然とした表情で見

つめて、いろいろと考えてみた。

 しばらくの間、本当にしばらくの間、あらゆる可能性を考えてみた。

 兄がいて、それから自分の知っている女性、玲がいる。

(これは……どういうことなの?)

 美夏には、ある種の不安が生じると同時に、わけが分からなくなっていた。


                                       2


 朝、美夏はいつものごとく手料理に明け暮れていた。

 いや、正確に言うのならば、明け暮れ終えていた。

 もぐもぐ、という擬音後があるとするのなら、それは料理を食べている様子を表すもの

だろうが、実際にはそんな音など立てずに、彼女は美夏の朝食を静かに食べていった。

「……おいしい?」

 美夏は彼女の方は向かずに、キッチンからそう問うた。

 自分の料理を他人に食べてもらうことは、嫌いではない。むしろ食べてもらって、「お

いしい」と言ってほしいという期待がある。

 それについての不満は皆無だ。現に、自分の期待を裏切らない表情を彼女はしている。

「うん」

 という、か細い声が返ってきた。

 どうやら、もう元気が戻ったようだ。

 顔こそ今でも気味の悪いものであるが、彼女の表情は豊かになってきている。朝食にあ

りつく前と今では、格段に違っているのが一見して分かった。

「ならいいんだけど」

 美夏は彼女の返事にそう応えると、食器を洗っていた手を進めた。

 爽やかな朝である。

 何事もない、そしていつもと変わらない平和な一日が始まるのだろう、目が覚めた時は

そう思っていた。

 べつにそれに何か事件が起こったわけではないのだが、だが美夏は、彼女という存在が、
何か、自分  いや、自分たちの生活を壊してしまいそうな嫌な予感を感じたのだ。

 昨夜、家に帰ってから一睡もできなかったのは、そんなことを考えていたためなのかも

しれない。

 とにかく、美夏は不安だった。あらゆる意味で、不安だった。

「うん、おいしい……」

 再び、今度は美夏が問うたわけでもないのに、彼女が小さな声でそう言った。

 それほど朝食が気に入ってもらえたのだろうか、そう思うと、美夏は心の中で照れが生

じずにはいられなかったが、とりあえず嬉しかった。

 日が昇って、部屋の電気は付けなくても、窓から差し込む光で十分、中の様子は窺える。
 玄関、風呂場と隣接した、キッチン、洗面所、洗濯機、冷蔵庫などがある部屋。今、キ

ッチンには、美夏がいる。

 ベランダと隣接した、TV、ソファーのある、いつも睡眠をとる部屋。彼女がテーブル

に座って、美夏の手料理に感激しているような、ちょっといいにくいがそんな表情で食べ

ている。

 いつもいる、今日は朝早く仕事に行った兄と、入れ替わるように存在している彼女。

 仲はいい。

 嫌いでもない  いや、むしろ好きだ。

 だが  

「……玲さん、いつまでいるんですか?」

 美夏は、普段では使わない口調で、そして普段では言わないようなことを彼女に言って

いた。

 彼女という女性に、自分の縄張りを取られたような、そんな気がしていた。

 自分でもそんなことを感じることに馬鹿みたいな気がするが、でも、からだは本能的に

そう感じとってしまっている。

 昨夜、彼女  玲が、見知らぬうちに自分の家にいた時、驚愕したのは、自分でも分か
っていた。

 だが、同時に、よくよく考えてみたら、家の中へ入れたことのある人物というのは、今

まで全くなかったことに気づいた。

 今まで、この部屋ではいつも兄と二人きりだった。兄の親友の茂也でさえ、今思えば部

屋の中に入れたことがなかった。

 そのことを考えると、なぜだか無性に胸の中がずきずきと痛んで、苛立ちをどこかにぶ

つけなければ気が済まない状態になっていた。

 その原因となった玲が、すぐそこにいる。

 彼女のことは好きだ。だというのに、憎悪を感じずにはいられない。

 そんな美夏には気づかず、玲はさきほどの美夏の質問に少々戸惑っているようだ。

 理由は分からないし、教えてもらってもいないため分からないが、まだ体調がよくない

のだろう咳き込んで、玲はキッチンの美夏の方を向いて口にした。

「……美夏、もう少し、いさせて? 駄目?」

「ううん、そんな。全然いいよ。わたしは全く構わないからっ。いつまでもいてっ」

「……ありがと」

 玲の願いに、笑顔を見せて快くOKはしたものの、美夏の内心は怒りさえ感じていた。

 怒り。そう、ついに怒りまで感じたのだ。

 そんな強い思いに捕らわれながら、美夏は今言った言葉を否定するように口にした。

「あ、……でも、おにいちゃんが駄目だって言うかもしれないから、まだ分からないよっ。
わたしは全然いいんだけど……」

 そんな美夏の、心の中での期待を崩すように、玲は微笑を浮かべた。

「……うん、それなら大丈夫……。京ちゃんは、いいって言ってくれたから……」

「ふ、ふぅん」

 軽く相槌する。

(  っ)

 美夏は、胸中で声にはならないが大声で叫んだ。

(おにいちゃん、なんで「いい」なんて言っちゃうの?)

   なぜ、玲は自分たちの家へ入り込んできたのか。

 なぜ、なぜ、自分たち以外は誰も入ってはいけないこの聖域に、彼女は入り込んできた

んだろうか。

 もしかして  

 そこまで考えて、ある疑問が頭の中に浮かぶのを感じた。

   もしかして、邪魔する気 

 美夏はキッチンから、今では笑顔すら浮かんだ彼女を見て、そう思った。

(……そうか、そうなんだ……)

 心の中で呟いてみる。

(……玲さん、邪魔するのね)

 そう、邪魔する気なんだ。彼女は、自分たちの生活を邪魔しにきたんだ。

 二人きりの、そう、兄と二人きりの生活を、邪魔しにきたのだ。

 彼女は、邪魔者だ。邪魔者だ。

 邪魔者なんだ。

(玲さん……。そんなことはさせないっ)

 頭に連呼して響いてきた、その、邪魔者という言葉。美夏は眉間に皺を寄せて、テーブ

ルに座っている彼女を強烈な目付きで睨んだ。

「……これ、本当おいしいね」

 それから数秒、ほんの数秒だが、こちらに気づかずに「おいしい」と言い続ける彼女を

睨み続けて、そして  

(え? ……邪魔者?)

 ふいに、その単語を問い返してみた。

 彼女が、邪魔者。

 自分の頭や心や、胸の奥からはその単語が幾度と自分に言い聞かせては、きた。

 だが  

(邪魔者って、なんで邪魔者なの?)

 最後にその問いを意識した時、美夏は正気を取り戻した。

 玲が、数杯おかわりをしてまで自分の作った料理を食べているのを、皿洗いの手を休め

てまで眺めてみる。

(邪魔って……、何を邪魔するんだろう……)

 よくよく、熱くなってしまった胸を冷やすように考えてみる。

 玲が、何を邪魔するのだろうか。

 美夏は、今し方、頭の中に入り込んでいた、玲に対する『怒り』を、この時になってよ

うやく不可解に思った。

(……なんで、なんでそんなふうに思ったんだろ)

 玲に対して、なぜこんな思いを抱いたのか、美夏はそれに疑問さえ感じ、そして同時に

そんな思いをしたことに恥ずかしみを感じていた。

 いつの間にそんな思いを感じていたのか。

 とにかく今はいつものように玲と触れ合いたい、そう思って、美夏はしかめたままだっ

た顔を、多少ひきつりはしたが、笑顔にした。

「玲さん、うちにいるのはいいけど、家の事、少しはやってもらうよ?」

「うん……。もちろん」

 玲の返事に、美夏は今は快く思えた。

(うん、そうだよね。何を邪魔するっていうんだろ。玲さんは、いい人だよっ)

 そう、玲はいつも自分の話は聞いてくれたし、相談にも乗ってくれた。

 それなのに、なぜ彼女をこんなにも嫌悪してしまったのか。

 しかも、ただ自分の家にいるというだけで、そんな思いに急激に駆られた自分が恥ずか

しかった。

 邪魔どころか、これからしばらくはいてくれるだろう玲にいろいろな意味で期待してい

いのではないか。

 家の中が、明るくもなるだろうし、話相手も増える。

 いいことこの上なしだ。

(わたし、おかしかったよね)

 勝手に思って、勝手に解決することになんだか情けなくも思ったが、それでもとりあえ

ずは玲が自分との生活に嬉しく思っていそうなので、とりあえずOKだ。

「……美夏、料理、今度教えてね……」

「うんっ」

 美夏は、今は調子の悪い玲の、だが心のこもったその言葉ひとつひとつが、新鮮で、な

ぜだか楽しかった。

 だが、しかし  

「……京ちゃん、早く帰ってきてほしいな……」

 そう呟いた彼女  玲。

 空腹のためか、やせ細った彼女。頬がげっそりとこけて、下手をすれば浮浪者にも見え

てしまう、以前は美人の部類にいた彼女。

 後になって思えば……、その彼女がこの家へ来てから感じた、美夏の不安げな予感は、

ある意味では当たっていた……。

 だが、彼女がこれから先、この家に住む美夏と、その兄  京に起こる、災難、苦難の
日々の前兆となることなど、その予感を馬鹿みたいに思ってしまったこの時の美夏には、

想像もできなかった。


                                       3


「いくぞっ!」

 茂也はそう大声で気合を入れて、そしてその意味のままにドアの開いた玄関の外へ走り

だそうとした。

 そしてその言葉に返答を期待しながら、茂也は玄関の外へ出るや否や家の方へと振り返

る。

「…………」

 返答の返ってこないことに苛立ちと恥じらいを感じて、茂也はしばらく外から玄関の方

を見つめた。

 家の中から自分を馬鹿にした面持ちで見つめる少女がひとり、ぶすぅっとした表情でつ

ったっている。

 だが、彼女の格好はまさに茂也の言葉を肯定するように外出の格好にはなっている。

「……いくぞっ?」

 そんな彼女にもう一度念を押すように言う茂也。

「やだっ」

 それに舌を出す感じで  実際には出していないが  少女が吐き捨てる。

「いいから行くぞっ 」

 その生意気な言動と表情にますます逆上して、茂也はさらなる大声でそう言った。そし

て少女を強引に連れていこうと玄関へ戻る。

「イヤだっ 」

 掴もうとした茂也の手を振り放して、少女はそう叫んだ。

「いくっつったらいくんだよ!」

 少女の叫びに負けないくらいの大声で、茂也は再び少女の手を掴もうとして  

「やだったら、やだっ 」

「  いでっ 」

 茂也の腕に思いきり噛み付いて、少女は一歩、家の中へと後退した。

「こ、このガキッ! いくっつってんだろっ 」

「いかねぇっつってんだろ 」

「なんだっ、その言葉遣いはっ! 女の子の使う言葉じゃねぇだろっ! とにかくいくん

だっ!」

「うるせぇ! 女なんて関係ねぇだろ! いかねえっつってんだよっ、この馬鹿兄貴! 

お前なんか死んじまえ!」

「なっ  」

 少女の最後の言葉で、茂也は驚愕するとともに絶句した。

 自分に対する少女の言葉遣いと、そしてその内容には、もうどうすることもできない、

……そう悟った。

 少女が自分のことを嫌っているのは分かっていた。

「だけど……」

 だけど、そこまで言わなくてもいいのではないだろうか。

 茂也は、今までの人生の中でも最大に値する衝撃を受けて、そして、これからの兄妹の

関係は、今までのような、安らかで、平和なものを感じられないだろう絶望さえ感じた。

 だが、だが  

「だがそこまでおめぇに言われる筋合いはねーよ! この馬鹿妹 」

「死ね、馬鹿兄貴 」

「ケッ! そんな精神攻撃は一回しか通用しねぇよ、馬鹿かてめぇは」

「へん、一回通用すること事態情けねぇんだよっ! 死ね!」

「うるせーっ! 何度も同じ罵声ばっか言ってんじゃねぇ 」

「ケッ! おめぇだって同じ内容の話ばっかじゃねーか! いっぺん死にやがれ!」

「『おめぇ』って言うな! それに『死ね死ね』言いやがって……。この小便くせぇクズ

チビ女ガキが、生意気言うんじゃねぇよ。おめぇこそ死にやがれっ!」

「……そう、おにいさまは、私に死んでほしいと言うのね。じゃあ、死ぬわ……」

「な、何    あ、あ、そ、そ、それはいかん! やっぱりちょっと待てっ!」

「  やかましいっ!」

 唐突にも口を挟んだのは、ふたりをしばしの間、傍観していた青年である。

 青年の言葉に驚いて言葉を切った茂也と少女。

「……ったく、どういう会話してんだよ」

 そして青年は、彼の言葉に多少照れた様子で向いてくる少女と茂也を、交互に見渡した。
「  で、それが普段の会話だっていうのか?」

「あ、ああ、まあな。なんとなく分かったか?」

「……まぁ、分かりたくもないけど」

 と言って青年は茂也の話に呆れながらも、なんとか平静を保つ。

 赤面しつつこちらを俯き加減に見てくる少女の方を見て、それからその少女に問う。

「さゆりちゃん、茂也には、いつもこんな感じで話してるの?」

 青年の言葉に余計に顔を赤らめて、両頬に手を当てて、少女  さゆりは口にした。

「いえ、そんなまさか……。わたくしは至って礼儀正しくしていますわ、京君…… 」

「……ってゆーか、なぜそこで『 』がつく、『 』がっ!」

 茂也の言葉になどまるっきり無関心で、さゆりは両頬に当てていた手を一旦離して、青

年  京の手を取った。

「では、行きましょう、ですわ」

「……なんで京には敬語なんだよ。……しかもお嬢様じみた言葉遣いしやがってっ!」

 茂也はさゆりをひと睨みしてから、次いで京の苦笑を含んだ目を凝視する。

「京、さゆりは渡さんぞっ!」

 その茂也の警告じみた言葉に、京は笑顔で即答する。

「うん、分かってるよ。いらないし」

「え  なんですの、それ  京君、誤解されるようなことは言わないでっ」

「お前の方が誤解されるよーなこと言ってんじゃねぇかよ。とにかくさゆり、京はやめと

けっ」

「なんでだよ、くそ兄貴    あっ、京君、今のは誤解ですわっ。わたくしの言葉遣い
は、この茂也というクズな兄がいるからのことでして、決してわたくし本人の意志による

ものではないのですわよ」

「なんだそりゃ? ってゆーか、兄のことを『茂也』って呼び付けすんじゃねぇ! かわ

いくねぇ……」

「さ、行きましょう」

「……このガキッ」

 というわけで(何がというわけなのかは分からないが)、三人は外出することにした。



 カフェ・ホーソーンでの、午後のひととき……。

 四人一組の長方形のテーブル。椅子が二つずつ対角するように、ある。

 茂也とさゆりが隣に座り、それに向かい合うように京は座っていた。

「ははぁ、だからさゆりちゃんは茂也にそんな言葉遣いで話すのか……」

「そうなんですのよ。お分かり頂けました?」

「おいおい、ちょっと待ちやがれ」

 今日の茂也は、普段とは打って変わって機嫌が悪い。それをもろに表情に現している。

 さっきからずっと穏やかに話している、彼の妹のさゆりとはまるで正反対に、純粋な

『怒り』というものを露にしているのが、これまた分かる。それはおそらく、周りにいる

客にも簡単に分かってしまうであろう。

 客入りの少ないこの時間帯、テンションの一番高いのは、さゆりである。

   というより、この話題に盛り上がる要素などまったくなく、ひとり甲高い笑い声さ
え含ませているさゆりには、誰構わず違和感を感じることであろう。

 と、茂也が付け加えるように口にした。

「京、違うぞ」
                                                                     ひと

「いや、違うとも言えないよな、さゆりちゃん。実際に茂也は誰かまわず気に入った女に

は声かけてるわけだし……」

「そうだそうだ、クズ兄貴! もう少し硬派に生きろ!」

「うるせー、黙りやがれっ」

 茂也の怒声が店内に響き渡る。

 その様子に驚いて恐怖すら覚える店員もいた。

   っとついでに、その数人の店員の中からひとり、見覚えのある顔に茂也の目がいく。
「あっ」

 と、その茂也の目があったのと同時に、その店員のひとりは彼の出した声にさらなる恐

怖を浮かべた。

「祐里ちゃんじゃないかっ」

 自分のことを知られたその店員は、茂也の声を聞くなり奥の方へと足早に去っていって

しまった。

「ちょっと待ちなよぉ、祐里ちゃんっ♪」

 などと言いながら、茂也はいきなり立ち上がると奥へと逃げ込んだ店員  祐里のもと
へと走った。

「おいっ、茂也!」

 という京の声もむなしく、茂也の姿は見えなくなっていた。

「ったく、しょうがないヤツだ」

「ですわねぇ、まったく。だからあんな兄など……」

「うん。……まぁ、そう言っちゃ、茂也もかわいそうだけどさ」

「いえいえ、そんなことはありませんわよ」

 茂也の見えなくなった、店員の控える部屋だろうか  関係者以外立ち入り禁止と書か
れている扉を見やる。

(関係者以外、か。まぁ、茂也のことだから、そのうち関係者になる可能性もあるかも分

からないけど)

 とりあえず茂也のいなくなったことで、京は、この、茂也の妹であるさゆりとふたりき

りになってしまった。

「京君、ところで、なにゆえ今日はわたくしをお呼びしたのですか? 早く言ってくださ

らないと、わたくし誤解を…… 」

「さゆりちゃん、『 』は余計だよ」

 顔をさっきから真っ赤にしているさゆりに、京は苦笑いを浮かべた。

 そんなさゆりを見て、その彼女の目に、なにやら余計なことを考えているような眼差し

があるのに気づいて、京は一旦目を伏せた。

(しかし、なぁ)

 そういえばなぁ、と京は思う。

 さゆりが、なぜこんなに自分に気があるように見せかけているのか  いや、実際に気
があるのかもしれないが、ともかく京にはいまいち分からなかった。

 茂也とは、昔から一緒だった。

 具体的な想い出という想い出  例えば、記憶に残るような出来事が、茂也との間にあ
ったわけではないのだが、それでも一応、小さい頃から一緒に遊んでいた記憶はある。

 そんな茂也とは、ふたりだけで遊んでいたわけではなかった。

 茂也の妹、さゆりも一緒だったのだ。

 昔からふたりとは仲がよく、喧嘩があったこともあったが、それも今思えば、逆にいい

想い出のような気がする。

(だからこそ、さゆりちゃんがよく分からないんだよな……)

 小学校の三、四年  つまり、九、十歳あたりからさゆりと遊ぶ回数というものが減っ
たとはいえ、小さい頃から三人で遊んでいた京にとっては、自分が中学に入った辺りから

急に態度を変えて、今のような言葉遣いを  まさに『お嬢様』にしてしまったさゆりが、
どうも分からなかった。

 恋愛感情が生まれるのは、おかしいのだ。

 そんな仲ではなかった。

 故  

(何かある……)

 などと思ったりもする京。

 そんな思いにふける京とは裏腹に、さゆりはいつの間にか、頼んだチョコレートパフェ

を小さなスプーンで幾らか掬って京の口元まで持ってきていた。

「京君、さゆりの想いをそのお口で受け取って…… 」

「ちょ、ちょっとさゆりちゃん」

 それを軽く手で遮って、京はさゆりのスプーンを持った腕を取ると、逆に彼女の口へと

持っていった。

「あん……、そんなせっかちな……」

「……いや、うん……、まあいいや」

 京の、自分の腕を掴んでいる手に逆らわず、さゆりはそのまま口を開いてクリーム混じ

りのパフェを食べた。

「うん、おいしいですわっ」

「ならいいんだけど」

 すーすーっと、何やら汁を啜っているような音を立ててさゆりは食べていく。

 そんなさゆりの口元をまじまじと眺めて、京はふと思った。

 さゆりは、いい子だ。

 仲はよかったし  いや、今もいいと自分では思っているし、一緒に話してても退屈は
しない。

 気まずくもない。

 いつでも自然体に触れ合える。

 そんな自分とさゆりのことを考えてから、今度は、ふとここに来る前、茂也の家を出る

少し前のことを思い出してみた。

 茂也とさゆり、かれら兄妹にやってもらった、普段のふたりの会話。

 最近、ふたりと同時にいることが少なくなっていた京は、ふとかれらの仲は今までどお

りにいいものかと、多少気になってみたので、外出を兄妹でするという設定で話してもら

った。

   のだが、その結果というものは、もしその会話が普段のそれと本当に変わらないと
するのなら、それを頼んだ自分としては、聞いていてなんとも言えなく、複雑になってし

まった。

 簡単に言えば、仲が悪い、のだろうが、だがその仲の悪さには深刻なものとして現され

ている感じは、正直なところ京にはしなかった。

 茂也に対してはちょっとばかり厳しいような気がするさゆり。

 だが、それはおそらく、彼のことを考えてものだろう。まぁ、実際はそうでないにして

も、とにかくナンパはやめてほしいと思っているのではないだろうか、と京は思う。自分

もそう思っているから。

 そんな茂也の軽い考えが、さゆりには気に入らないのだろう。

(昔は、茂也も純粋だったのになぁ。まぁ、子供の頃だから当たり前かもしれないけど)

 茂也の今の態度、それから昔の、小学生頃の茂也の恋愛に対する考え方を思い出して、

京は苦笑した。

「京君、なんですの、その苦笑いは」

「いや、なんでもないよ」

 思っていたことに無意識のうちに苦笑していたことにさゆりが指摘するのを受け流して、
京は、さゆりと茂也の仲は、今でも十分かもしれないが、それ以上に仲がよくなってほし

いと思った。

「ねぇ、京君。さっきも聞いたけど、なんなんですの、わたくしに用事って」

「あ、ああ」

 さゆりの問いかけに、その問われている内容のことを思い出しながらも京は曖昧な返事

をした。

 ここに来ようと思ったきっかけ。

 そもそも、カフェ・ホーソーンに来る用事というものは、大抵が話をしにくる時だ。

 それ以外は、二階の花屋での仕事が終わった時や、その休み時間などに、軽く休みに来

る時など、だ。

 今日は前者の用事で、こうして三人でこようと思ったのだ  が、

「いや、さゆりちゃんには、べつに用はないんだよ。茂也に話したいことがあってさ」

「えっ  なんですって 」

 京の言葉に愕然としたものを感じて、さゆりは首をがくっと垂れた。

「そ、そんな……。京君、わたくしはてっきり  」

「……何か変なこと考えてない?」

 さゆりの表情と口調から、何やら嫌なものを感じて、京は彼女の言葉を遮った。

 とりあえずさゆりが落ち込むのを見て、なんとなくそうなるだろうとは思っていたもの

のなんとなく気が引けたので、京はすぐに口にした。

「いや、でも嘘だよ、用がないっていうのは。さゆりちゃんにも話しておこうかなって思

ってたから」

「ほっ、ならいいんですけれど」

 安堵するさゆりを見て、それからしばらく彼女の瞳を見つめて、微かな輝きからコンタ

クトをしているな、などとどうでもいいことを考えながら、京は頷いた。

「さゆりちゃんにも、話したよね。玲がさ、大学やめて、東京に帰ったっていう話」

 唐突な話の出だしに、さゆりは一瞬目を大きく開いたが、間もなく普通の表情へと戻っ

て口を開いた。

「ええ。ご存じですわ。玲ちゃんとは、それはもう深い仲ですから、なんでもかんでもど

んなことでも深く深く深すぎるほどにお見知りしてますわよ、わたくし。  あっ、いえ、
そ、そんな、深いだなんて、わたくしべつにそういうことを言おうとしたわけではなくて、
その  」

「……いやいや、べつにそれはいいんだけどさ」

 さゆりが妙に焦って否定しようとするのには訳がある  

   のではないだろうか、と京はふと疑問に思ったがそれはあえて気にせず、続けた。
「でさ、玲がうちに来たんだ。三日ほど前のことだけど」

「え、本当ですの?」

「うん。今はずっとうちにいるんだ。玲さ、今まではお父さんとお母さんから、一人暮ら

しの生活費とか、家賃とか仕送りしてもらってたんだけど、大学やめたのを話したとたん

に、仕送りはなくなって、だから今の家には住めなくなるのに加えて……、縁、切られた

らしいんだ。仕事を探すのにも、今の世の中は厳しいから  さゆりちゃんも少しは分か
るよね? バイト見つけるのも、本当に難しいんだ……。で、玲、うちに来た時は、すっ

ごく痩せ細ってて、何も食べてなかったらしくて。ずっとどうしようか迷ってたんだって。
佳子はもう結婚するから、邪魔するわけにはいかないって言うし、それに、玲は真面目に

話合える友達は、あまりいないって言うんだ。そんな時、いつの間にかたどり着いてたの

が、うちだった、ってわけなんだ。だから、とりあえず今は、玲はうちにいてもらってる

んだけどさ……」

「……なるほど」

 と、とりあえず友人である玲の現状をひととおり飲み込んださゆりは、相槌して、それ

からしばらく考え込むような格好をして  というか実際に考え込んで、そして真剣な表
情で言った。

「ですが京君。それは、甘い、というものですわよ。京君は美夏と二人暮らしで大変なの

ですから、恋人でもない京君がそこまでする義理というものはないのではありませんの?」
「うん、確かにそうなんだ」

 さゆりは、自分の言ったことに対する京のあっさりとした態度に多少の驚きとともに喜

びにも似た感情を覚えて、続けようとする京に聞き入った。

「だからさ、邪魔になるかもしれないとは分かってても、とりあえず最初は玲と仲のよか

った佳子に話そうと思ったんだ。だけど、連絡先分かんなかったから、ならまずは茂也に

話そうかなって思って。さゆりちゃんも玲とは仲、よかったし」

「まあっ。そう言ってくれると嬉しいですわ」

「茂也だったら……、なんて期待があったから。さゆりちゃん、茂也からさ、玲に対する

想い……とか、聞いたことない?」

 京の話には、なかなか聞いていて悪いものがなかった。

 特にさゆりにとって嬉しかったのは、玲と仲のよかったひとり、として見られていたこ

とだ。

 と、まあそれはそれとして、とりあえず今の京の問いのことを考えてみる。

「……そうですわねぇ」

 さゆりはしばしの間、言葉に迷うように眉を傾かせていた。

「やっぱり茂也はそういう話、しないかな」

 そんなさゆりを見て、それから茂也のいなくなった、客もあまりいない店内を見渡して、
京は呟いた。

 茂也は道端にいるかわいい女の子を見つける度、声をかけては、まぁうまくいけば付き

合っている(その割合というものは京が見る限り、限りなく少ないが  というより、い
まだかつて成功したことなどないようにも思える……)。

 だが、そんな茂也でも本命というものがあるのではないかと、京は思っている。

 その本命というのは、友人でもあり、仲のよかった玲ではないかと、周りにいる、彼の

妹のさゆりや、佳子なども思っている。

 が、実際のところは分からないので、そういった確証はない。

 無理に聞こうと思えば、それはそれで教えてくれるのかもしれないが、その必要という

もの、そしてそんなことをする権利は、そのいずれの人間にも、ない。

 茂也に、今、自分の家にいる玲のことを話したところでどうなるのかというと、それは

分からない。

 だが、彼はなんらかの行動に出てくれるのではないかと、京は思っていた。

「そうですわねぇ、わたくしにはあまりそういうお話はなさいませんけれど。でも、兄に

そんなことを話したところで、なんの解決にもならないような気がするのですけれどね、

わたくしとしては」

「まぁ、そうかもしれないんだけどさ……」

 そんな京に、確かなる根拠でもあるように、さゆりはそう呟いて溜め息をついた。

「けど、ま、とりあえず茂也にも話しておいた方がいいと思うからさ、たぶん」

「まぁ、一応は、ですわね」

 そう京とさゆりがひととおり玲の話を終えたその時  

「うぎゃ 」

 さきほど、茂也と、茂也が追う原因ともなった店員  祐里が入っていった扉の奥から、
男性らしき悲鳴が聞こえた。

「な、なんだ?」

 反射的に身を振り返らせて立ち上がった京は、なんとなく嫌な予感がしたので扉の方へ

と駆け出した。

「あ、京君。待ってください」

 それを追うさゆりは、ところどころ唇についた白いものをなんとなく気になって舌でな

め回した。

 京の住むアパートのドアよりも幾らか大きめの鉄の扉だ。赤いペンキで塗られており、

どうやら塗り立てとまではいかないだろうが真新しいようである。

 ばたんっ

 その扉をおもむろに開いて、京は中へと入った。

 そしていきなり聞こえた声は  

「お、おう、京」

「……な、なにやってんだ、茂也?」

 茂也の声。

 声が裏返りながらも、京はその光景にいまいち理解できずに、だがなんとか理解しよう

と努力して、倒れている茂也の前に屈んだ。

 扉に入ったすぐそこ。茂也はうつ伏せになって顔だけこちらを向いていた。

 そして、その茂也越しに、通路をもう少し行ったところには祐里の姿がある。

「どうなさったの 」

 京の後ろから慌てて覗いてくるさゆりの姿を見て、茂也は「へへっ」と笑った。

「祐里ちゃんがさぁ、逃げるんだよ」

「は?」

 いまだ倒れたまま言う茂也。それを恐怖しながら少し先の通路で見つめている祐里。

「待ってくれぇって言ってるのに……。ついつい追いかけ回ってたら、うまく足を掛けら

れて、まぁこうして倒れてるってわけよ」

「……というか、今までずっと追いかけ回ってたのか?」

「へへ、ま、そういうことだぜ。かっくいいだろ」

「死ね、くそ兄貴!」

 茂也の態度とその甘い口調に怒りを露にしたさゆり。

 京は、実際には今日、何度か聞いてはいたのだが久しぶりにさゆりの罵声を聞いたよう

な気がした。

(……玲の話をしようと思ったのは、間違いだったのかもしれない)

 なんとなく、茂也の『癖』というものがどういうことか知ってはいたものの、だがそれ

でもまだ許せるのではないかと思っていた自分が、少しだけ  いや、相当に情けなく思
えてきた京であった。


                                       4


 爽やかな朝を迎えて、玲は心なしか、感動した。

(なんで朝ってこんなに気持ちいいんだろう)

 今までそんなことを考えたことがなかったからか、なんとなく今日という日の、晴れ渡

るだろうすがすがしい朝を迎えたことに、ただそれだけで最高の気分だった。

 ここに来て、よかった。

 そう思い始めたのは、いつのことか。

(ふたりとも、優しくしてくれる……)

 大学をやめるまで生活をしていた部屋から追い出されて、仕事が見つからない今、身の

寄り所のなくなった彼女にとって、ここはまさに天国とも言える場所であった。

 従来住んでいた、ふたりの兄妹  京と美夏は、自分の存在に、表面的なものにすぎな
いとしても喜んでくれてはいる。

 初めのうちは、やはりそのことについて不安があった。

 自分は、ふたりの生活の邪魔にはならないだろうか、と。

 少なくとも、生活費くらいは出したいところだが、なかなか今でも就職先、バイト先が

見つからない。なかば諦めているところでもあるが、兄妹のことを考えると、そうもして

いられない。いや、それだけではなく、いつまでもこうして他人に頼っていてはいけない

のだ。

 そんなことは分かっている。

(だけど……)

 だけど、やはりそんな自分を、こうして素直に一緒に住まわせてもらっていることに、

感激とともに本当に感謝した。

 最近、その思いが強くなってきていることに自分でも気づく。

「玲さん。今日は『カツ』、やりますよぉ」

「うん。分かった」

 この部屋に住んでいる兄妹の、妹の方の美夏。彼女の呼びかけにそう返して、玲はキッ

チンへと向かった。

 まな板の上には、何やら不可解な肉片が用意されている。

「美夏、これ、何?」

 料理はある程度  とまではいかないものの一応は経験のある玲でも、その肉の塊がな
んなのか、分からなかった。

 隣で、終始、笑顔の耐えない美夏が「えへへ」と笑うと、包丁を軽く握って、その肉の

真ん中にゆっくりと突き刺した。

「これはね、『愛の如し川の流れに』っていうお肉」

「へ?」

 一瞬、わけの分からない間に取られた玲は、情けない声を出した。

「そ、そんな名前の肉、あるの?」

「うん。最近スーパーに出てきた、主婦の間じゃ、結構噂のお肉だよ。しかもこれ、すっ

ごくおいしいんだっ。おにいちゃんも大好きなんだよっ」

「ふーん」

 初耳の肉をまじまじと眺めて、玲は唇の端をふっと上げた。

 それから、こうして美夏とキッチンに立てるようになったこと、今ではどうでもよくな

ったそんなことを、玲は考えてみた。

 美夏とこうして、何げない話も、一応はできるようにもなった。

 柏田兄妹の家にたどり着いた時、どうしてここにやって来たのか、自分でも分からなか

った。そう、無意識のうちにやってきていたのだ。

 いや、それは多少異なりはしたが、まさかあんな状態で兄妹の家に行こうなどとは、考

えてもみなかった。

 空腹で、そしてそれだけではなく体調不良になって倒れそうになっていた自分をここま

で回復させてもらうには、ただ単に食事を食べさせてもらうだけでは済まなかった。

 気晴らしに話をしたり、ゆっくりと療養させてもらったからこそ、自分はこうして随分

と、完全ではないが回復できた。

 全ては、かれらと知り合いだったことと、そのかれらが自分に親切にしてくれたおかげ

だ。そう玲は思った。

 今では小さなことも頭の中でいろいろ考えるようになったな、などと付け加えて思う。

「玲さん、いい? まずは、このお肉はちょっと特殊でね、最初の下調理が大切で、でも

そのやり方がちょっと  ううん、かなり普通のお肉と比べて違うの。だから、このお肉
のやり方だけを覚えたところであんまり役に立たないけど、でもこれからはこのお肉、普

及すると思うから、玲さん、覚えてねっ」

「普及、するの?」

「うん、たぶん」

 自信ありげの美夏にそう問い返しながらも、玲はとりあえず美夏に肉の調理の手順を習

っていった。

 どうやら、この『愛の如し川の流れに』という肉は、冷凍庫に保存し、解凍は中途半端
              ・・
に終えるのが、みそらしい。

 その半解凍の状態で、まだ凍りついていそうな感じが残っていてもそんなことは気にせ

ず、そこで直方体といっても過言ではないほどの四角掛かったその肉の、ちょうど真ん中

に一閃、切り込みを入れ、そこを超過熱するらしい。

 その実践をやっていく。

「ところで美夏、超過熱ってなに?」

「超過熱っていうのはね、そのままの意味で、いっぱい過熱することを言うの。焦がしち

ゃうくらいっ」

 美夏の説明途中だがそう問うた玲。それに、やはりいつもの笑顔で答える美夏。

 その答えに軽い疑問を持ちつつ、呟いてみる。

「……焦がしちゃうくらい焼いて、大丈夫なの?」

 それを聞いた美夏は、さらなる笑顔で大きく頷いた。

「うん、大丈夫なんだよっ。それなのにおいしいのが、このお肉の特徴だから。とにかく

やってみるから、見てて?」

「うん、分かった」

 とにかく、料理に関しては自分が美夏にかなうとは思わないし、それに美夏の料理は何

から何までおいしい。ここ数日間、毎日様々な料理を味わってきたため、それが堂々と言

える。美夏の料理は、保証してもいいくらいだ。

 それ故、とにかく作業を続ける美夏に従って目で追っていった。

 ここ数日、美夏は玲のために  と言い切っているわけではないが、その理由のほとん
どは玲である  花屋・ホーソーンでのバイトを休んでいる。

 いや、休むというよりももとからここ数日は仕事を入れていたわけではなかったので、

まぁちょうどいいといったら、そうなるであろう。

 兄の京は、玲には美夏がいれば十分ということか、とりあえず毎日働きには行っていた。
 今日も、それに変わりはなく、この朝の時間、京は仕事に早く行き、美夏は玲と、体力

回復と精神的な面での回復を含めて、一緒に料理を作っていた。

 そのおかげか、ここ数日の料理の教えのおかげで、玲は体力の回復とともに自分の料理

のレパートリーが増えて、喜んでもいた。

 美夏にとって、それはそれで嬉しいものである。まず、自分の作った料理を食べてもら

うことに喜びを感じるのはむろんのこと、さらにその料理を今度、ひとりでもやってみよ

うと言う玲には、自作の料理が広まることもあり、何も言うことはない状態。

「で、ここで焼きますっ」

 さきほどの説明に多少足りないところがあってか、美夏は幾らか調味料を加えたりもし

て、そこから説明どおりにやっていった。

 玲はそれを見ながら、美夏が自分で書いておいた、厚いメモ帳  自作レシピの一ペー
ジに書いてある、『愛の如し川の流れに』の肉の調理法を併せて見る。

 それから、書いてあることを先取りするように口にする。

「なるほどね。で、卵を入れるわけ?」

「うん、一・五個、ね」

 それに答えて、美夏は冷蔵庫から八個ほど残っている卵の中から二個、取り出した。

「この、『・五』がポイントなの。多すぎても駄目。少なくても駄目。味、すぐ変わっち

ゃうんだ」

「へぇ」

 などと簡単に言いつつ、だが実際にその量はものすごく重要らしい。美夏の、卵を『・

五』にしようとする時の表情は、なかなか真剣味があった。

 玲は、そんな美夏の料理に対する真剣な顔を見て、それからしばらくキッチンのそばに

ある窓から、外の景色を眺めてみた。

 二階のこの一室からは、周囲に高い建物がないせいか、景色が一望できる。

 幾つか遠目にここのアパートと同じものであろう型の建物があるが、それも遠いため、

外の様子は一望できるのだ。

「…………」

 それから作業を続ける美夏の方を向いてみる。

「玲さん、よく見ててね」

 そう言いながらもこちらの方は向かずに、てきぱきと動く美夏。

 ふと、思った。

(美夏は、いつも京ちゃんにこうして料理作ってあげてるんだろうな……)

 手に持ったメモ帳に目を走らせる。

 数百ページにものぼる分厚いメモ帳。美夏がこれまで、どれだけの料理を作ってきたか

が窺える。ついで、それだけ料理への想いがあることも。

 そのほとんどが、自分の見知らぬ、食べたこともない料理。その辺のレストランに行っ

たところで味わえない料理、いや、その辺のレストランだけに限らないかもしれない。全

て、オリジナルなのではないだろうかと、玲には思えた。

「美夏、偉いね」

 そのことを考えると、玲には美夏が尊敬の対象で、これから、ずっと親しくいたいと思

える。

「え? なにそれ」

 まぁ当然の返答であろう美夏の言葉に、玲は軽く頷いて、

「ううん、なんとなく」

 言った。

「?」

 『?』マークいっぱいの美夏は、玲をしばらく見つめてから、とりあえず料理を続けた。
(うん、偉いよ、美夏)

 もう一度繰り返して、玲はそう思った。

 それから自分が、美夏のようにここまで料理を作れるようになることが、それはすなわ

ちどういうことなのかを考える。

 やってみたい。これだけの料理を自分だけで作ってみたい。

 深く、深く憧れた。

 そして同時に、玲はある期待にも似たものを心の奥に潜めた。

(あたしも……)

 そして、メモ帳と、美夏の料理に対する真剣な眼差しを見つめて、思った。

(あたしも、京ちゃんに作ってあげるんだっ)


                                       5


 スーパー・たまちゃん。そこでの買い物は何度目になろうか。

 小さい頃から、馴染みのあるスーパーだった。

 母親と一緒に来たことがしばしば。それから、妹とふたりぐらしになってからは、数回

来た。

「今日はりんご、だな。美夏、りんごが大好きなんだ。ちょうど切れてた気がするから」

「ほぉ、美夏ちゃん、りんごが好きなのか」

 果物売り場とでもいうように、果物だけが締めている食品売り場まで来て、京は艶のあ

るりんごを手に取った。

 四個でひとパック。値段は、今日はたいして安くはないが、ちょうど今日は給料日だっ

たこともあってか、妹のことを考えるとどうしても買いたかった。

 京の住む住宅街から、少しだけ歩いたところにある、一階建てだが広いスーパー。食品

類を買いに来る時は、大抵  いや、まず、ここを選ぶ。

 夕方のこの時間、妹の美夏がいつも買い出しから帰ってきた時に話してくる主婦の話の

現実というものが、今、実際にやってきて身に染みて分かったような気がする。

 今日、一日の仕事を終えた京は、カフェ・ホーソーンで待っていた茂也と共に、こうし

てスーパー・たまちゃんまで来ていた。

 まぁ、冷蔵庫の中が空になったわけではないのだが、なんとなく美夏に何か買っていっ

てあげようかと思い、こうして来た。

 そこで、りんごコーナーだ。

「京、そのりんごだけでいいのか?」

「いや  」

 茂也の問いに、即、返答すると、京は店内をきょろきょろと見渡して、それから口を丸

く開いて目標を発見すると、茂也に首で合図して歩いていく。

 果物の中でも大きく締めているりんごコーナーから少しだけ歩いたところにある、冷凍

食品のそばにある、透明の扉つきアイス売り棚。

「よし、これだ」

 その透明の扉を開いて、中から冷たい冷気が顔にかかってくるのに多少目を背けてから、
中にある箱型ファミリーパックのアイスを手に取る。

 それを見て軽く微笑する京を後ろから見て、茂也は首を傾げた。

「……やっぱ、りんご、か?」

「うん。美夏、りんごが大好きなんだ。ちょうどアップルアイスも切れてたような気がし

たから」

「はぁ、なるほどな」

 とりあえず相槌する。

 京が妹想いなのは知ってはいるが、二度同じことを言わなくても分かるんだけどな、と

思いもする茂也。

 っと、そんな茂也を尻目に、京が再び何かを見つけたようで、すでにその目標に向かっ

ている。

「今度は、なんだ?」

 と問う暇もなく、急いで追いかける  すると、京が立ち止まったのは、飲料水売り場。
 牛乳、おいしい水(とやら)、飲むヨーグルト(なんてのもあるな)、(それから)フ

ルーツ系のジュースが多量、などとひととおり茂也が目を通していくと  

「よし、これだ」

 そのフルーツ系のジュースの中から、何やら赤い色をした紙のパック、おそらく一リッ

トルジュースであろうものを手に取った。

 それを後ろから見て、茂也は首を傾げた。

「……やっぱ、りんご、か?」

「うん。美夏、りんごが大好きなんだ。ちょうどアップルジュースも切れてたような気が

したから」

「ふぅん、なるほどねぇ」

 とにかく相槌する。

 自分の欲しいものは買わねぇのか? などと思いながら茂也は美夏のことを思い出して

みた。

(……そういや美夏ちゃんって、りんご、好きだったっけかな)

 ちょっとした、どうでもいい疑問でもあったのだが、そんあふうに思ってしまった。

 っと、そんな茂也はおかまいなしに、京がどこやら行ってしまっていた。

「おい、京、まだあんのか?」

 と問う暇もなく茂也は京を探した。



 結構な時間、そう、結構な時間が経ったような気がする……。

「なぁ、京。べつにそこまでりんごに拘らなくてもよかったんじゃないのか?」

 という茂也の問いかけに、京は「いや」と首を振った。

 スーパー・たまちゃんを出て、そろそろ帰ろうということで、茂也と京は家路を歩いた。
 茂也の家は、スーパー・たまちゃんからは京の家より遠く、そのため途中まで茂也は京

と帰ることにした。

 スーパー・たまちゃんに入る前はまだ明るかった空も、今では暗くなっている。

 夜だ。

「りんごはさ、美夏の大好物なんだ。こういう日くらい、買っていってあげたいんだ」

「……まぁ、いいけどさ。俺はさゆりなんかにゃ買ってやんねぇけどな、ぜってぇ」

「はは」

 茂也のいつものさゆりに対する態度を思い出しながら、京は苦笑した。

 京の両手には、『たまちゃん』という、なかなかかわいらしいイラストとともにロゴが

記されている、買い物袋が幾つか。

 中には、前述したとおり、まず、スタンダードに果物のりんご、で、アップルアイス、

それからアップルジュース、で、その後どんどんと買っていき、りんごの漬物、りんごタ

ブレット、百パーセントアップルティー(飴の名前)、りんご焼き(焼きりんごとは一味

違う)、ラブラブアップル(板ガム)、ポールりんご(大帝国ポールからの輸入品、京は

りんごコーナーへと戻って再び買った)、優しいアップルアイス(アイス売り場へと戻っ

て、やはり単体のアイスも必要だということで買った)、りんごチップス、チョコりんご、
りんご畑(果物のりんごを特殊なソースで煮込んだという絶品、だが、りんごマニア向け

ということで、普通の人にはあまりおいしくないかもしれない)、さんまとりんごの交ぜ

混ぜ(な、なんだそりゃ、と茂也は思ったりもした)、その他にも数種入っている。

「美夏ちゃん、全部食べるのかな」

 茂也の疑問ももっともであり、中には怪しい、人間が食べるようなものではないものが

含まれており、なぜスーパーにあるのかという初歩的な疑問さえ浮かんでくる食品さえあ

った。

 だが、京は終始笑顔で口にした。

「いや、今まで美夏が食べたことのあるヤツだけだから、大丈夫さ」

「……そうなのか?」

 茂也にとって、見ていて自分まで明るくなってしまう、美夏という少女は、とても自分

にはプラス的存在である。

 純粋で、かわいい、明るくて、そしていつも笑顔というのが美夏に対するイメージ。京

の妹ということとそのイメージのせいか、美夏にだけは不思議と手を出す気にはならない

茂也。

 そんな彼にとっては、今聞いた京の話が信じられなくもあり、信じたいとも思えなかっ

た。

「まぁ、人それぞれ好き好きはあるさ」

「ま、まぁな」

 京の言葉に、茂也は軽く応えた。

 とりあえず夜の人のいない、この、小さな名のない道を歩いて、茂也はふとあることを

思い出した。

「あ、それはそうとさ、京」

「?」

 美夏のことで頭がいっぱいだったのか、もしくは自分の買った食品群を美夏が目にした

時のリアクションが楽しみなのか、奇妙にニヤけている京が、ふいに自分の言葉に気づい

て向いたところ、茂也は口にした。

「なっ、京。玲と今度さ、遊園地にでも行かないか?」

「え? ……どうしたんだ、茂也」

 突然の茂也の提案に、京は驚愕とまではいかなかったものの少し驚いた。

 そんな京の反応を見てから、茂也は軽く笑った。

「いや、さ。俺たちで、玲を元気にしてやろうと思ってな。あいつさ、今、心、痛いんだ

ろ? だから、さ」

 茂也は苦笑した。

 京が茂也に玲のことを話してから、彼はちょっとばかり元気がなさそうにもなっていた

のだが、それの反動とでも言うべきなのか、今の彼の言動には焦りが感じられた。

 だが、その茂也の提案には、京は反対ではなかった。

 むしろ、自分でも考えていたことであったのだ。

「ああ、そうだな。行ってみようか」

「おっ? やっぱそうこなくっちゃな」

 京の返事に純粋に喜んで、茂也は頭を掻いた。

 とりあえずそのことを簡単に頭の中に思い浮かべて、京は考えた。

 この近くで、簡単に行けるような遊園地を探してみる。

(……えーと。そうだなぁ)

 なんとなく検討がついて、京は口を開いた。

「じゃあ……、《楽園スィーター》にでも行ってみようか、今度」

「おう、そうしようぜ。……そっか、でもよかったぜ、京が乗り気で」

「はは。じゃあ、玲にその辺のこと、話してから、電話するよ」

「ああ、そうしてくれや」

 納得して、茂也は軽く笑った。

 しばらく歩いて、京の住む住宅街の入り口の前に、着いた。

 そこで茂也は無意味に嘆息して、手を上げた。

「じゃあな、京。頼むぜ」

「うん」

 そう行ってからいきなり走りだす茂也を遠目に眺めて、京は夜の住宅街へと入った。

(茂也、やっぱり玲のこと……)

 なんとなくそう思いながら、京はとりあえず家に向かった。



「うん、行く行くっ! けど、ほんとうなの?」

「ああ、茂也も来るってさ」

 夜の食卓……。

 いつもの自分と兄、それに加えて玲。

 兄のために玲とふたりで用意しておいた、キッチンにおいてある料理を、兄が帰ってく

るなりテーブルへと出して、美夏と玲はテーブルについた。

 実はふたりとも、京が帰るまで食事はしていなかった。

 食事を始めたちょうどその時、京が突然、遊園地に行かないかと言い出した。

「……あぁ、嬉しいな、京ちゃんがそんなこと言ってくれるなんて……」

 玲が意外にも  いや、兄がそういう話を玲にしたら、どういう反応を見せるのかと考
えると意外ではなかったがそれ以上に喜んでいるの彼女を見て、美夏はなんとなく見入っ

ていた。

「最初は、茂也が考えたんだよ。でも、玲が行くって言ったら、茂也、喜ぶだろうな」

 京の、玲の感想を否定しようとする言葉  だが彼女はそんなことなど聞いておらず、
本当に心の底から喜んでいるようであった。

 美夏はそんな玲と、そしてそのきっかけとなった兄を見つめて、ふいに口にした。

「おにいちゃん、茂也さんと三人で行くの?」

 その問いが、なぜ出たのか分からなかった。

 だが、無意識にそう口にしろと脳裏から命令が来た。

 最近、特に玲が来てから、美夏の頭の中に何かが住み込んだようにそう口にしてくる。

 と、そんな美夏の問いに、京は頷いた。

「うん、そう思ったんだけど……、でも、美夏も行くかい? 多い方がいいでしょ。茂也

も多分、それを見込んで言ってるんだと思うし」

「あ、ほんと? やったっ」

 ただ、純粋に喜んだ。

 それから自然と目は玲の方へと向く。

「うん、美夏も来てほしいな」

 玲が笑ってこちらを向いてそう言うのに、なんとなく気まずく思いながら、とりあえず

は美夏は食事を続けた。

「で、場所は《楽園スィーター》にしようと思うんだけど、どうかな」

「えっ 」

 という驚愕の声を発したのは、美夏である。

 そんな美夏の声に驚いて、玲と京が疑問に見てくる。

「どうしたの、美夏?」

 玲の問いにしばらく黙り込んでから、美夏はひと昔前のことを思い出していた。

「ううん、ただ……、ただ、想い出の場所だから、久しぶりだなって思って。ね、おにい

ちゃんっ」

「ああ、そうだなっ」

 美夏の言葉に何を言いたいのかが分かったのか、京が笑ってそう言った。

「?」

 ふたりが何について話しているのか不可解に思いながらも、玲はとにかく今日は京に言

いたいことがあった。

「ね、京ちゃん」

「ん?」

「今日の料理、どう?」

「え、なんで?」

 突然聞かれたことに、ちょっとした疑問が生じた京。

 だが、その問いに苦笑いをする玲を見てから何やら気づいたのか、京は上空を見た。

 それからフォークを掴んで、今日のメインである料理に手を付ける。

 しばらく咬み、玲の目を見る。

「うん、今日のは、肉がイケてるかな。おいしいよ」

「ほんと? やったね、美夏」

「うん」

 美夏に同意を求めて、美夏の笑顔での相槌をきっかけに、玲は甲高く笑った。

「玲、今日の料理は、玲が作ったのか?」

 そんな玲に、京は食事を続けながら問うた。

「うん、そうなんだよ、京ちゃん」

 その京の問いが、何より嬉しく、そしてその感想も嬉しい。

 玲は、それに答えることすら幸せを感じた。

「そっか。うん、でもほんとおいしいよ」

「ありがとう、京ちゃん」

 そういえば、京に自分の作った料理を食べてもらうのは、これが初めてのような気がす

る。

 かつて試みたこともあったのだが、それはちょっとしたことで実現されることはなかっ

た。それを考えると、こうして京に、美夏にフォローしてもらったとはいえ一応は自分で

作った料理を味わってもらったことが、嬉しい。

 にこやかにいられる自分。

 そんなことまで意識してしまう。

 と、

「じゃあ、玲、今度の日曜日辺りに、行こうか」

 京が具体的に日を決める。

 まだこの家に住まわせてもらっているだけで特に何をするというわけでもない玲は、正

直なところいつでもいい。

「いつでもいいよ」

 その玲の返事に満足してから、京は今度は美夏の顔を見た。

「美夏は日曜日、大丈夫?」

「うん、わたしは大丈夫」

「よし、茂也がOKだったら、決まりだな」

 京はそう言うと、休めた食事を再開した。

 美夏と玲も、そういえばまだ何も食べていないことにようやくのことで気づいた  し
かも目の前に自分たちの食事は用意されているというのに、だ。

 とにかく三人は、夕食を味わっていった。

「この料理の腕なら、遊園地の時は、玲、弁当作ってくれると嬉しいな」

「え、ほんと?」

「うん」

 兄が言ったその言葉。それに喜んでいる玲。

 しばらくふたりの笑顔の耐えない顔を眺めてから美夏はひとり、口数が減っていること

に気づいた。

 そして、兄の、玲の料理がうまいという言葉を聞いた時から感じていた、奇妙な想い。

「でも、おにいちゃん。わたしも作るからね、お弁当」

 美夏は、再び、無意識に頭から伝達された言葉をそのまま口にしていた。

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